芭蕉の風狂   「野ざらし紀行」を中心に芭蕉を語る  落合冬至

 貞享元年(1684)八月、四一才の芭蕉は門人千里を伴って、江戸を立つ。遠い旅路に際して、「途中の食料も用意せず夜中月影の下、無我無心の境地に入る。」と云った古人の旅心を頼りに、隅田川の辺の芭蕉庵から、いざ出発となると、風の音に寒気を感じるのである。

              野ざらしを心に風のしむ身哉

              秋十とせ却て江戸を指す故郷

 死を覚悟の旅立ち、風が心にまで吹き荒んでくる。江戸へ定住して十年、実の故郷より江戸に心が残る。前句風狂俳諧の道「此一筋」と、後句家族に後髪を引かれる「捨て難き情」、芭蕉の心の中にこの二つが同居し、その挟間をさ迷うのである。この二句は切り離すことはできない。

 箱根の関を越える日は、雨天で山は全て雲に隠れて、見ることができない。

              霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

 この句は状況を描写するよりも、心象風景を取り入れて表現する。これが芭蕉の紀行文の特徴である。心象風景は次の文に関連してゆく。

       富士川の辺を行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣くあり・・・・・

 これは江戸に残してきた三才の次女(おふう)と重なるのである。秋風の中、僅かばかりの生活の糧は用意してきたが、家族は途方にくれているであろう。

               猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 猿の鳴き声を聞いて断腸の思をする旅人、これは芭蕉の自画像である。江戸に残してきた子供達はどうしているのであろう。このまま旅を続けるのか、或は引き返すか・・・・・芭蕉は自問自答する。

               唯是天にして、汝が性のつたなさをなけ。

 このような境遇に生まれてきた不運を泣いてくれ、と風狂人芭蕉の筆舌に尽し難い心情を、敢えて晒けだすのである。

               馬上吟  道のべの木槿は馬にくわれけり

 芭蕉はこの「捨て難き情」を木槿に喩え、それを馬が食べてしまったと詠む。これは「野ざらし紀行」の中で最重要の決断の句である。人生五十年、作品を残す時間はあと数年しかない。この門出により、「奥の細道」をはじめ数々の名作が生まれたのである。

 元禄七年(1694)五月、長男次郎兵衛を伴って、重い持病があるにも関わらず、最後の旅へ江戸を立つ。その後寿貞母子が芭蕉庵に移り住む。

                  麦の穂を便につかむ別かな

 見送りの人びととの別離の句。風に揺れる麦の穂は、芭蕉の心の動揺をを投影している。

 同年六月 芭蕉庵で寿貞没。江戸の猪兵衛宛ての書簡。

 「寿貞無仕合ものまさ・おふう同じく不仕合、とかく申し尽し難く候。・・・・・何事も何事も夢まぼろしの世界,一言理屈はこれなく候。」と痛恨の心情を書き送っている。

                  数ならぬ身となおもひそ玉祭り

 寿貞の新盆で詠んだ句。「数ならぬ身」は物の数にもはいらない人間。芭蕉はやさしくそれを否定している。心の妻にむかって詠んだ鎮魂の句である。

 同年十月 大阪にて芭蕉没。

 「奥の細道」の跋(あとがき)に柏木素龍は芭蕉とその作品について 「からびたるも、艶なるも、たくましきも、はかなげなるも・・・・」と述べている。側近にいた素龍の言葉は一つ一つが真実を物語っている。